2007年02月25日
明るく生きるということ
生きていると辛いことが起こる。誰にでも起こる。突然起こる。そういう困難に直面した時にでも、明るく飄々としていたいと、ボクは常に思っているのであるが、この姿勢を忘れかけることもある。今特に目の前に何か大きな問題があるわけではない。しかし年齢とともに、周囲も少しづつ変わるし、親族も加齢が進むと、親族の誇りのようなものを守る自信があるかないかというようなことを考えるときがある。
親族は選べない。自分が選んだものであれば自分に問いかければすむのであるが、血脈は自分が選択していないものである。そういう問題で悩むケースというのは多いのではないだろうかと、最近考える。
しかし、それでもそれをあるがままに受け入れて、協力して問題を解決していくときには飄々と堂々としていたいと願うのである。仲が良い友人たちも同じことを話すことがある。自分ひとりではないから、かかわりがあるものへのケアは大事である。
時折夢を見るものがある。それはたとえば老人が虐待されたら、あるコミュニティーの扉を開ければそこには基本的には年金程度で大勢が楽しく暮らすところがあり、それぞれが能力を生かして、適当に楽しく暮らしていけるインフラがある。補助金もあるので、贅沢ではないが楽しいコミュニティーである。
子供たちも同じで、そこでは親が忙しければ駅前の食堂でおかみさんの手料理を食べながら、親が帰るまで仲間たちと勉強したり遊んだりできるコミュニティーがある。虐待などがあればシェルターになってくれる場所である。そこに行けば最低限の楽しさやあるいはそれ以上の人間の尊厳が維持される場所がある、そんなコミュニティーである。いずれのコミュニティーも基本は大勢で暮らすというものだ。核家族とは逆の、衣食住という基本だけはしっかり温かなものが確保される、たったそれだけのものである。
こんなことさえ今の経済力をもってしても日本は作れないのだろうか?今自身に余裕があればこのような日本型キブツ(原始共産社会としてのものではなく日本型現代版隣組)を試験的に始めてみたいという欲望がある。政治家にはできないだろうから、民間の力で成功モデルを作れば後はまねするものが出てくると思う。
家族と住みたくないとおもった老人が一人で門をたたけるようなそんな何でもない庵が、高級ケア付老人ホームなどよりもビジネスモデルとしては楽しいと思う。いつかそんなことに関われれば楽しいのであるが。団塊世代が新たなビジネスモデルを生んでくれると期待している。かれらには共通の時代背景と価値観がある。楽しく生きるために何をすべきかを最もよく知っていてそれを早急に奨める意志力があると思う。ぼくももうすぐそういう仲間に入るけど、その前に何かどっかんとベースを作ってくれたら嬉しいです。
2007年02月25日 21:27
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