外には出ないぜよ
昨夜は少し涼しくなって、これは!と思ったけれども、今日はまた逆戻りです。家の中でゆっくりしながら、新聞を観て、テレビを見て、音楽を聴き、のんびりすることに決め込みました。
そんなときに母校の話題があり、今日は早実に敗れましたが、昨日の段階でのニュースは記念すべき準決勝進出なので、中日スポーツからの記事を少し。
「西東京の準々決勝では早大学院が東亜学園を1-0で破り、創価にコールド勝ちした早実との41年ぶり“ワセダ対決”が、24日の準決勝で実現することになった。また、今春の選抜大会準優勝の日大三もベスト4に駒を進めた。ナインもスタンドも、まるで優勝したかのようなお祭り騒ぎ! 無理もない。早大学院の夏4強入りは1954年以来56年ぶり2度目。早大と同じ校歌「都の西北」がこだました。
同校OBで、昨秋から就任したばかりの木田茂監督(53)は「守りはいいので競り合いなら負けない気持ちはあった。ベストゲームだと思う」と満面の笑み。言葉通り、第4シードの東亜学園打線を完封、スクイズでの1点を守りきった。早大学院は全国でもトップクラスの進学校で、予備校などのランキングでは入試の偏差値は75前後。野球部内でも学業優先の雰囲気が強く、サッカーコート半面ほどのグラウンドも、他クラブとの兼ね合いで、使えるのは週2日、2時間ほど。あとは校舎内の廊下や階段を使ったり、学外の公園のジョギングコースで走り込んだ。
準決勝は係属高で野球強豪校の早実との“ワセダ対決”が実現する。夏の大会では1969年以来41年ぶり。同監督は「勉学で集まり、劣悪な練習環境の中でも戦えるのだという誇りを持ってぶつかってほしい。いけるところまでいきたい」と気勢を上げた。」
まあこれだけなんだけど、甲子園なんて夢のまた夢だったので、こうして手が届くところまできて嬉しい限りです。学校のHPが盛り上がっているかと思えば、これまた地味で、結果だけしか触れていません。もっともりあげてくださいな、頼みますよ。。。でもこの静かさが学院のいいところかも。
そして今日一番感動したのが、NHKの水木しげるさんのインタビュー番組でした。今は朝の連続テレビの「ゲゲゲの女房」でその若いころの生活ぶりを紹介してくださっていますが、今日のインタビューの中で、戦争で片腕を切断する羽目になった時の経緯。「死にたくない。その一心で、麻酔なしで腕を切られた時にも気を失ったら死ぬのでないかと思い、耐えた。。。」のくだりです。皆生きたい、それでも死んでいった仲間たちを思うとそう簡単には死ねない、という気持ちが伝わってきて、現代の自殺願望との対比で、大変記憶に残る番組でした。凄い意思力を感じました。
もうひとつは宮沢賢治の晩年の話を知り合いから教えてもらいました。Wikiでの紹介は以下の通りです。
昭和6年(1931年)、病気から回復の兆しを見せ、東山町(現在の一関市)の東北砕石工場技師となり石灰肥料の宣伝販売を担当。9月、農閑期の商品として壁材のセールスに出向いた東京で病に倒れ、帰郷して再び療養生活に入る。その傍ら文語詩を初めとする創作活動もおこなった。11月3日、手帳に『雨ニモマケズ』を書き留める。 昭和8年(1933年)9月21日に急性肺炎で死去した。享年37。法華経1000部を印刷して知人に配布するよう父に遺言。生涯、独身であった。死の前日農民に夜遅くまで肥料の相談を受けていたという。戒名は真金院三不日賢善男子。なおこの戒名は、国柱会から授与されたもので、東京都江戸川区一之江にある、国柱会の霊廟には、賢治の遺骨の一部と妹トシの遺骨が納められている。
たくましい人生です。一年後輩の保阪嘉内との関係が興味深いところですが、それはまたどこかで文献に触れたいと思います。
午後はNHKで内田朝陽君の沖縄路線バスの旅を再放送を観ていました。沖縄の友だちが「やってたよ~」とメールくれたので観そこなったと思っていたら、早速やってくれました。太秦から戻ったばかりで近々飯を食べる約束したばかりでした。
夕方、福嶋先生のパーティーの後にいろいろとご無沙汰のお詫びメールやら、これからもよろしくねメールがたくさん届き、返信をしたりしていたらあっという間にこんな時間です。後一週間で8月に突入です。天ぷらの会を開けという声が多く、又セットします。待っていてください。
気合注入こめて大好きなSOUL'd OUT のTo All Tha Dreamersでも聴きましょう。











